本当の毒出しは40代から?

性虐待に限らず、機能不全家族に育った人は、原家族となんとか折り合いをつけるため、生存本能として自分が生きやすいように、都合のいい解釈をして生きてきています。

 

きっと親は自分のことを大事に思ってくれているに違いない、と信じることで生き延びたのだ、と知ったのは何十年も経ってからでした。

 

ミッドライフクライシスについて書かれた日経ウーマンオンラインの記事には、こう書いてありました。

 

■見えなかった現実に気付くと、人は深く傷つく

「気付きは、深い傷を伴います。ものの見方や自分に対する意識が確立してくる中年期の気付きとは、『今までの価値観が無価値だとか、間違っていたかのように思える』という感覚に近いのです。それは、単純に『悩みや迷い』という言葉でひとくくりにできるものではありません。今まで見えなかった現実が見えると、人は現実を受け入れがたく、時には恐怖すら感じます。すると、これまで自分が信じていたことや、ものの見方が間違っていたのではと考え、途方もない罪悪感や無力感を感じることも、しばしばあるのです」ー引用元   何かが違う心のSOS、危機に向き合う/ 日経ウーマンオンライン https://style.nikkei.com/article/DGXMZO80344380R01C14A2000000

 

中年期を迎えて、新しい家族を持ったり、経済的にも自立し、社会的立場も安定してきたころ、「なかったことにしてきた過去の記憶」が突然、蘇る。あるいは、自分が親にされてきたことへの素朴な疑問が湧いてくる。

 

そんな中で性虐待のフラッシュバックに悩む40代が多いのではないかと想像します。

 

特に親を大切に思い、親はいい人だと信じることで生き延びてきた人には、受け入れがたい、きつい現実が、否応なくみえてきてしまう。自分が親になってわかる、あるいは周囲の健全な親子関係をみて気づく、ということもあるような気がします。

 

人生経験を重ね、物事を客観的に見ることができるようになったからこそ、自分のかけてきた色メガネに気づき始める。

 

価値観の修正は多々起こるものの、親子の愛情に絡む「価値の崩壊」は、まさにアイデンティティに関わる危機です。まさか、まさか、まさかだよね? と思うような現実にぶち当たる。

 

私の場合はまさにそんな感じでした。面と向かって尋ねたことはないし、まさかね、といつまでも思っていました。

 

「本当は親は自分を愛してくれているに違いない」と思いこむことで何十年も生きてきたので、それを失うということは血がドクドクと流れ出すような痛みと、死にも近い絶望感がありました。

 

とはいえ、私は親に愛されていると信じたことで曲がることなく、素直に育ちました。自分でいうのもなんですが、そのメガネのおかげで純粋で、優しい人間に育つことができたのだと思います。代わりに人を疑うことを知らず、いじわるをする人の気持ちがわからない、人を見る目がないという欠点も形成されていました、笑。

 

何事にも両面あって、正負の作用がありますが、基本的に私は「純粋に親を信じた」。そのおかげで、いじわるさんにはなりませんでしたし、優しい気持ちをしっかりベースにして人格形成ができたのではないかと思います。

 

(おそらくその優しさは元々持っている個性プラス、親以外の大人との触れ合いの中で培われたはずで、身近では祖母や、時々遊んでくれた近所の優しいお兄さん、学校の先生など、袖すり合った大人たちのひと声や笑顔が、安心感のある関係を育んでくれたものと思います。人の心を育てるのは親だけではないので)

 

過去に過酷な体験を持つ人は、自分が生き延びるために使ってきた大切な信念(幻想)を、あるとき捨てなければ、前に進めなくなる。現実をしっかりみて、「人格を再構成する時期」が必要なのだと思います。

 

愛着や依存という側面もありますが、自分が生きやすいようにかけた色メガネ、と考えるとシンプルになるように思います。

 

それは、私にとって生まれ変わるに近い感覚でした。自分の依って立つ立脚点が変わりました。

 

パソコンのOSを入れ替えるようなもので、初期設定されると、これまで積み上げてきたデータが消失し、自分がなくなったような喪失感がありました。

 

いろんな人間がいるので、親も色々で当然です。親は子を思うもの、子供を可愛いと思わない親はいない。そう思いたいところですが、現実は違うということです。

 

長くなりましたので、明日に続けます。

 

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 都会の隙間のトキワハゼです。