性虐待サバイバーとして生きる2

先日、性暴力サバイバーの方々とお話する機会がありました。

 

人それぞれ、さまざまな後遺症やPTSDを抱えながら、ゆっくり回復してきていました。まだ完全とはいえないまでも、少しずつ少しずつ乗り越えていく。

 

何か強い傷を負った樹木のように、人間が生きていくことの価値を感じました。

 

よく雪の深い地方に行くと、ガードレールも曲げるほどの雪の重みで、樹木が根元をぐにゃりと曲げたまま、そこからもう一度、幹をまっすぐ立て直して伸びているのをよく見かけます。あんな感じと似ています。

 

一度倒れて、地面についたところからまた根を生やして、龍のようにクネクネになった木も、凄いなあと感心しますし、崖っぷちの松の木なども、そんな急斜面で?というような場所で、ぐいっと垂直に立ち上がって生えていたりします。

 

そういえば、樹木も自殺することがあるという記事を読んだことがあります。生きられる環境があっても、木々が自ら生きることをやめてしまうことがあるのだとか。樹木にもやっぱり意志があるのだろうと思います。

 

また反対に、森で枯れそうになった大きな樹を周囲の仲間の木々が根っこを伸ばして、長年にわたって栄養を供給し続けていたことがわかった、という記事もありました。植物が根っこでつながって、情報を交換していることを研究している科学者もいますね。

 

性暴力や家族の問題を抱える人は、そんなふうに根っこでつながって、支え合うことができるのではないかと思っています。

 

話しづらいこと、話しても誤解されやすいことは、やっぱり話す相手を選ぶことが大事ですよね。信じてもらえなかったり、重く思われすぎたり、軽く扱われすぎたり。

 

ただ、そうなのか、とシンプルに受けとめてくれるだけでも助かります。たとえ自分とは考えやプロセスが違っても、あたたかく見守ることができる。

 

それぞれの微妙な違いを知ることが、深い理解につながっていくような気がします。

 

人は決して強くない。とくに目に見えない心の損傷は自分でもわかりづらく、傷のケアができないまま、心の奥にしっかりしまわれていて当然ですよね。

 

私は結構強いと思って頑張ってきた方ですが、自分の弱さを認められるようになってから、楽になってきました。逆に弱いと思っていた人は、結構強いということを発見するのかもしれませんね。

 

とくに「魂の殺人」と呼ばれる性虐待は、やはり脳に深い負荷をかけ、脳が萎縮していることもある。脳が守ってくれているともいえますが、多かれ少なかれ乖離はあって、当然のことだと思います。

 

そもそも記憶は曖昧なものですし。とはいえ夢ではなくて、本当にあったこと。起きたことの事実は変えられないけれど、事実に対する解釈は何度も変容すると私は思っています。

 

誰かに言われたようにはできませんし、する必要もないけれど、自然にそんな気持ちになったとき、解釈も変わっている。思い癖もなくなって、新しい視点ができてくる。

 

そのプロセスに寄り添ったり、立ち会えたりするのはかなり豊かな時間だなと思っています。

 

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せせらぎ公園ツツジです。

 

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