「橋の下で拾ってきた」という母

子供は動物のように感覚的に生きているので、案外、大人の精神状態も見抜いています。母は情緒が不安定で、トランキライザーという精神安定剤をよく飲んでいました。

もちろん機嫌がよく、優しい面もあるのですが、同居する姑を憎んでいましたし、親戚も大っ嫌いで、ヒステリックになることもありました。

 時系列は定かではありませんが、子供の頃は父親が会社の同僚と浮気したりしたこともあったようで、情緒不安になっていたのでしょう。私はいつも「母の機嫌」を伺っていました。だからなかなか言えなかったのです。

 子供にとって、養育者の機嫌がいいかどうかは結構な死活問題です。私はすでに「親に機嫌をとってもらう」のではなく「親の機嫌を見守る子供」になっていました。

 父はたまに感情が昂ぶると手を上げ、頰がしびれ、赤くなるほど引っ叩かれるので、怖い存在でしたし、父親だけでなく、母親にも問題がありました。

 それは昭和世代によく言われた言葉「橋の下で拾ってきた」にも、表れていました。「うちの子じゃないのよ、あなたは拾ってきたんだから」

 「嘘だ」「嘘でしょ?」と不安がると、「ホントよ〜」と、さらに脚色や作り話をして、私の顔をみてニヤニヤしていました。「不安がる子供の姿」をみて楽しんでいたのです。

 自分に価値がないと思っている人は、自分を頼り、すがってくる子供を見て安心するのでしょう。安心安全が欲しい子供に、自分の立脚点さえ、わからなくさせる。子供に安心を与えず、自分の安心が優先されるのです。つまり母自身が未成熟で、子供のままだということです。

 子供が欲しい言葉は真逆ですよね。そんな中で、実父の性虐待も行われていたのです。

 (この昭和の歌い文句も「どうせ冗談だとわかっていたから、全然気になっていない」という方も、結構いらっしゃると思います。私も冗談だと、どこかではわかっていました。総体的に、不安にさせる言葉と、安心する言葉や行為の、どちらが多かったか、ということでもあるかもしれません。その後の親子関係において、愛情が確認できていれば、あまり問題にならないでしょう)

 

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 私がよく思い出すのは、母親と喧嘩をすると、いつも先に謝っていたことです。自分が悪いかどうかなど、最初の原因はもうどうでもよくなってしまって、とにかく機嫌を直してもらいたい、と私が先に謝っていました。

 「なんであなたが先に謝るのよ」と言って、母は照れたように笑い、そこから機嫌が良くなる→ 関係が良くなる→ 生存できるという安心感を感じて、私は満足していたのです。

 「自分が悪いことにすれば、事が丸く収まる」と感じるようになったのはいつからなのか、インナーワークで遡ってみると幼稚園に上がる前の、3歳くらいの記憶です。

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 私は外に出され、玄関の鍵を締められて、お仕置きをされることがありました。「ごめんなさい〜ごめんなさい〜ごめんなさい〜」、「オーンオーン、オーンオンオン」と涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになり、それが乾いたりして、ドアを叩く力も尽きて、休んでからまた叩き、日が暮れて寒い、心細い。でも開けてもらえない。

 (という話を以前、誰かにしたら、私はそういうとき、近所の家に行って遊んでたよ、という人がいました。賢いですね、笑。そうすると夜になって、夕飯までごちそうになってすみません、といって親が迎えに来てくれる。一緒に手をつないで帰る。そういう甘い記憶になっている人もいるわけです。地域のつながり、大事ですね^^)

 今思うと、それだけのお仕置きをするような落ち度が3歳の子にあったとは思えないのですが、母の機嫌や気分が治るまで、放置されたのではないかと想像します。

 不思議なことに、家に入れてもらって安堵した、という記憶はありません。当然、安堵はしたはずですし、寒さがしのげる家に入れたという安堵感はかすかに辿れますが、親に許されたという記憶や、ああ、ホッとしたという記憶は出てきません。

 世間体が悪いので家には入れるものの、親の機嫌が治っていくのに時間がかかり、気まずい雰囲気が流れていたのか、ただ私の心が凍りついたまま、解凍できなかっただけなのか、記憶はかなり曖昧で、間違った記憶のしまわれ方をしているかもしれませんが、どちらにしても、

 自分が悪くなくても「ごめんなさい、といわないと生きていけない」という私の思い込みは、この辺りから始まっているような気がします。

 謝っても謝っても許してもらえない。それは父の肉体的暴力も同じでしたが、この3歳の母との記憶の方が古く、自分が悪くなくても謝ること、譲ること、親の機嫌を優先することを私が決めてしまった可能性があります。

 母親は元々劣等感が強く、耳が遠いという身体障害もあったため、優秀だけれど、勝ち気で、ひがみっぽい性格でもありました。私は後年、彼女の曲がったものの見方や悪口を聞くたびに、気分が悪くなっていきます。近所の人の悪口でも、そうじゃないと思うけどなあ、と言っても、「あなたはわかってないのよ」と睨まれてしまうので、だんだん黙って聞き流すようになりました。

 

20代で家から独立した後、電話で「なぜあのとき、ちゃんと守ってくれなかったのか」と尋ねると、「だって、こんな私が一人で生きていくことはできないと思った」などと自分中心の理由を述べましたが、「ごめんなさい」だけは、どうしても言いたくないようでした。肝心なことには一切答えず、石のようにだんまりを決め込みました。

 どんなに懇願しても、私が求めていた「ごめんなさい」のひと言は出ませんでした。それだけは言えない、言ったら自分が壊れてしまう。そんな頑固さを感じました。そして「産まなければよかった」というのです、笑。

 「産まなければ、あなたも不幸にならなかった」という理屈です。本当にトンチンカン。

 自分がしたことの反省はできず、夫も責めたくない。消去したいのは娘。娘は私の人生の汚点だから、というわけです。

 ここから「私は母の不幸の原因である」という刷り込みが強化されていくことになります。性虐待は、その事実よりも、その後の大人たちの反応で何倍も苦しむことになります。

 産まなければよかったと言われても、私は生きている!  言われた子供がどんな気持ちになるか、考えてみたことある? と抗議すると、母は「考えたこともなかった。そういえば、そうねえ」と照れたように笑って言いました。本当に子供のまま、成長していないのです。実はこの母、極めて優秀な成績で、某有名大学の、教育心理学部を卒業しています(^ ^)  

 その後、数十年経ち、母はいまだに私に文句と不満を持ち続け、仕事の批評をしてみたり、どうせうまくいかないといった、根も葉もない呪いもかけてきます。ここはいいけど、ここはだめ。あれは良かったけど、ここが嫌。全肯定は死んでもしません、笑。

 あなたの幸せを願っていると言いながら、本当にあちこち気に入らないのです。こうだったら、ああだったらという条件付きの愛です。

 母の戯言を鵜呑みにする父親は「妻の高い審美眼は、あの子には気に入らないないでしょう」などと、本気で第三者に言いふらしています。30代頃になると父からは、ママにもっと気を遣ってほしいと何度も言われ、自分は気遣いが足りないのかなと鵜呑みにしていました。至らないのはいつも私、という構図が続きました。

 母からは結婚するまで「どうせあなたは一人淋しく、野たれ死ぬ」と言われてきました。心配しているという表現が、彼女の場合はそうなります。

 私の夫に対しても「○○さんにはいつかきっといい事がある。人生はどうなるかわからないわよ」という言い方で、彼の現在をやんわりと否定します。今の姿が、不遇だと思っているからです。本当に失礼千万。

 この女性から、生きているだけでいい、よくぞ生きてくれた、という言葉は聞くことは生涯、ないでしょう。「本当は産まなければよかった、みんな不幸になった」という思いを今でも抱えて生きているのです。自分の運命を引き受けられない人は、つねに不満でいっぱいです。

そんなわけで、会うたびに嫌な気分になり、ネガティブな贈り物しかできない母とは数年前に断絶し、自分の重荷は自分で背負ってもらうことにして、現在に至っています。

 

未熟な親のおかげで、今の私があります。

 

どうか子供を持つお母さんは、自分に悪いところがあったら素直に謝り、子供が元気で明るく生きていけるように、子供の可能性を信じ、励ましていただきたい、と心から思います。

 

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山吹の花