家庭内ストックホルム症候群

家庭内で虐待を受けてきたサバイバーは、生き残るためにとる手段として、「親を好きだと思う」ことがしばしばあるようです。自分で自分の心にフタをして、逆に親をいい人だと思うことで生き延びようとします。

ストックホルム症候群は、ストックホルムで実際に起きた銀行強盗事件で、人質になった女性が救出後も犯人をかばった事件を元に名づけられたもので、アメリカの裕福な家庭の娘が誘拐されたあと、自ら銀行強盗の一味となって行動を共にしたパトリシア・ハースト事件などが知られています。

映画になっているものもありますし、類似の事件は日本でも時々、報道されていますが、逃げようと思っても逃げられない場合は、犯人と仲良くした方が犯人の態度も軟化し、いい待遇を受けられるのですから、そうするのは当然かもしれません。

いつか逃げようと思っているうちに、脱出する気力を失ったり、いびつではあるけれど、平和を感じたりもするでしょう。

人は生存の危機を感じると、加害者に「同情や好意を寄せる」ことで生き延びようとするのです。たとえ監禁されていても、優しくされるとちょっとしたことでもうれしく感じたり、感謝の気持ちが湧いてきたりして、いつのまにか犯人をそれほど悪い人だとは思わなくなる。

それと同じことが家庭内でも起きているのではないかと提唱したのが、岩月謙司教授です。家庭内ストックホルム症候群は、自分で自分を騙す、自己欺瞞の世界です。

何をされても「愛されている」と信じたい。「尊敬している」「感謝している」「色々いいところがある」。DVにハマってしまう妻と同じような構造が、すでに家庭内にあるとしたら、、、

夫婦であれば逃げることもできますが、子供は親がいなければ生きていくことができません。逃げ場がない中で、生存しようとすれば、自分に嘘をつくことくらい簡単にできます。

実際に虐待を受けている子供を周囲が保護しようとすると、自分は親が好きだし、一緒にいたいのだと言って、親から離れたがらないことは多いようです。

大人になって平穏に暮らしていても、潜在意識に埋め込んだ強い自己欺瞞があれば、それは人生になんらかの影を落としてしまいます。一見、平凡な家庭の中でも、このような心理は結構、働いているのではないかと思います。

アダルトチルドレンの何割かがこのパターンで、親の実態をしっかり見れないために起きているのではないかと思います。

もちろん、兄弟の中で差別されたとか、親に見捨てられたなど、幼少期にショックを受けたなんらかの出来事で、自分が勝手に決めてしまった、思い込んだ、ということもあると思います。

自分がそう解釈してしまっただけで、親には親の事情があって、たいして悪気はなかったのだ、とあとで気づくこともあるでしょう。

アダルトチルドレンの解放にはそうした古い思い込みを変えることで楽になる場合と両方あるのですが、本当は避けていい、怒っていい人を「好き」に変えて生きてきてしまった場合は、自分が自分にかけてしまった深い「洗脳」ですので、いつかは解かないと、整合性がとれなくなってしまうのではないかと思います。

洗脳を解くのはかなり勇気の要ることですが、本当の意味で、自分を統合していくことができると思います。

自分でも気づかなかった、みようとしてこなかった心の洗脳を解いたあとにもう一度、自分の人格を再構成する。

親を本当に客観的にみることができるようになるのは、それからではないでしょうか。「どんな親でも子供を愛している」「子供をかわいいと思わない親はいない」そんな短絡的なことではなく、しっかり親を見てみる。

実際に子供を愛する能力のない人、表現が間違っている親もいます。これはある程度、自立して「自分が自分を支えるのだ」という覚悟ができてからの方がいいかもしれませんが、自分の潜在意識を洗い出してみると、案外スッキリします。

親にまったく愛情がないわけではないとしても、人間としてどうしても受け入れられない、とんでもない愛情も、世の中にはあります。

たとえば実父からの性虐待を受けてきた子供が、「それはおまえがかわいいからだ」などと言われても、その愛情は要らないものになります。「そうよね、私を思ってしてくれたのよね、悪気はないんだもんね? 」と許し、同調する必要はあるでしょうか。

母もまた、「どうせあなたは結婚できない」「きっと仕事がうまくいかなくなる」と心配し、嘆くことが愛情だと思っているような人でした。たとえそれが子供を思ってのことだとしても、子供にとってはありがた迷惑な愛情です。

親からの度重なる否定的な言葉は「生きるな」「存在するな」というメッセージを送っているのと一緒です。そして本人は自分は愛情深く、理解がないのは子供の方だと思っています。

私も長いこと「親は心配してくれているだけなんだ」「本当は愛しているからだ」と、思っていました。しかし、やってもやっても彼女の心の穴は埋まりませんでした。自分の心の不安を押しつけ、自身の劣等感から、自分ができないことをしている子供が羨ましかったり、あるいは何かしら文句をいって、ただ夫の注意を引きたいためだったりもしました。

両親とも言ったことの責任はとりません。彼らにとっては、ほんの一瞬ちょっとした不満が解消されればいいわけで、親を喜ばせたい一心で頑張っている子供の心を見事に打ち砕いていることに気づきません。

私は何を言われてもいいあなた方のダストボックスではありません、と何度いっても、彼らには通じませんでした。ただ感情を垂れ流すだけで、勇気づけや励ましのない親子関係は本当に淋しく、悲しいものです。

あれもこれも愛情だと思えれば楽にはなりますが、やはり限度はあります。人が心底、要らないと思うような愛情はやっぱり愛情、とは言い難いのです。

性虐待が起こる家庭は、基本的にはもう家庭としての役割を果たしていません。それでも体裁を繕うために、母親はなかったことにしてしまいたい。子供はその中で葛藤しながら成長し、別の家族の中で初めて安堵する。このパターンがなんと多いことか。

もちろん生まれた時は喜びもし、無事に育つことを願ってもいたであろう親も、所詮は人間です。起きた事実を認められない人もいますし、自分の心の葛藤を子供に押しつけてしまう人もいる。子供を性欲を満たすおもちゃとして扱う父親、壊れた心を抱えながら、そういう夫を愛し続ける母親も現実にいるのです。子供は当然、彼らにとって不都合な存在です。

人のずるさや弱さを直視し、それが自分の中にもあることを認められると、まあしょうがないか、という気持ちにはなってくるのですけどね(^。^)

少ない愛を掻き集めて、これが愛だと信じるよりも、子供にまっとうな愛情をかけられない親もいる、ということを真正面から見つめる方が、私はしっかり歩いていけるような気がしています。

自分によくしてくれる人を簡単に信じてしまったり、人の悪意がみえなくて、痛い目に遭ったり。もしそんな経験があるとしたら、自分が生き延びるために「自分を騙してきたこと」があるのかもしれません。