心愛ちゃんの絶望

心愛ちゃんの虐待死が話題になっていますが、

矢川冬さんも書いておられるように

「死因不明」の報道をみて、

私も彼女は死を選んだのだと思いました。

父親は心愛ちゃんをせっかんするために2日間会社の休みをとり、朝から風呂場に立たせて、冷水を浴びせ続け、倒れそうになっても何度も立たせ続けたそうですね。

母親もそれを手伝い、誰も助けてくれない。

一体、どれほどの絶望だったろうかと胸が痛みます。

もちろん生物学的な死因は何かあるはずですが、生命が生命として自ら死を選ぶ、ということはあると思います。死んだ方がラクだと生命が判断するのも生命の意思ではないかと。

昔、樹木も自殺するという記事を読んだことがあります。樹木は生きようと思えばなんとか生きられる環境であっても、自ら生命活動を止め、死を選ぶことがあるのだそうです。樹木も生きようとする意志がなければ、育たないのですね。

私自身、同じような折檻の記憶があるので、その恐怖がどんなものであったか、よくわかります。

父親におなかを蹴られ続けたことが、夜に行われた性虐待以上に、白昼の「死の恐怖の記憶」として残っています。謝っても謝っても許してもらえず、逃げ場もない。母親はいるけれど、助けにきてくれない。

むしろ母親と話した後に、父親が二階に上がってきて、私をいきなり殴り倒し、手加減なく蹴り続けていましたので、母親が何か言ったのでしょう。

昨日「自分もまったく同じで、階下で母親と話した後、父親が上がってきて、、」というシーンがまったく同じだ、というコメントをいただきました。「家庭内で行われるセクハラには、何か共通するパターンがあるようですね」と。

心愛ちゃんの母親は、子供に虐待が行われている間は、自分が暴力を受けることはなかった、と証言しています。

私は命をとられるところまではいきませんでしたが、打ち所が悪ければ死んでいたでしょうし、「なんで生まれてきたのかわからない」と思った記憶は、鮮明に残りました。

生きることに絶望し、全身から力が抜け、生きることを諦めた瞬間をよく覚えています。

おそらく父親に殴られた経験がある、という人は結構いるのではないかと思いますが、頼んでも頼んでも親の暴力が止まらない、死の恐怖を感じたという人とでは同じ暴力といっても、だいぶ違うのではないかと思います。

そして子供を守れないお母さん。本当に残念。性虐待を受ける子供の母親の多くは、このパターンです。わかっていても、見て見ぬふり。子供よりも自分が可愛いか、夫の経済力を失いたくないか、世間体を気にしているか。大体、そんなところでしょう。本来、親が自分たちで解決すべき問題やストレスを子供が受けることで、親を救っているともいえます。

この事件後、自分も虐待を受けている、と子供が警察に駆け込み、父親が逮捕されたというニュースがいくつか報道されていましたが、どうか逃げてほしいと思います。

親を思うがゆえに、それができない子供もたくさんいるでしょう。名乗り出る勇気のある子の方が少ないと思います。子供はどんな親でも愛されたいと願っていますので、自分の親を訴えることはなかなかできません。

心愛ちゃんは学校のアンケートに「どうにかなりませんか」とはっきりと書いていました。

生きる意志のある強い子だったと思います。

ご冥福をお祈りします。

 

もう、沈黙はしない・・性虐待トラウマを超えて

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