「当事者が語る加害者と対話する理由」に行ってきました。

「性犯罪をなくすための対話」シリーズ、第6回は場所が日比谷コンベンションホールに変わり、今回は加害者との対話を続けている写真家、にのみやさをりさんの講演と、後半は企画者である弁護士の上谷さくらさん、臨床心理士の齋藤梓さんら専門家によるパネルディスカッションでした。講演のタイトルは、

「私が性犯罪加害者と対話する理由」

にのみやさんはご存知の方も多いと思いますが、性暴力の後遺症で世界がモノクロに見えるようになったことをきっかけに、モノクロ写真の作品を撮り続けている写真家です。

講演の内容は、事件後から今に至るまでの経緯、そして昨年意を決して、性犯罪者の更正プログラムで知られる榎本クリニックの斉藤章佳さんを訪ね、更正中の加害者たちとの対話を試みてきた近況を語っておられました。

にのみやさんのお話は、自身の混乱や苦悩も含めて、ファインダーで見つめるように訥々と、しっかりと言葉が選ばれていて、ストレートに伝わってきました。ここまで真摯に向き合える人はなかなかいないのではないだろうか、と思えました。

かっこ悪くてもいい。傷が癒えなくてもいい。懸命に生きる。諦めずに生きる。人が一生懸命生きる姿は美しいものだとあらためて思います。

 

印象的だったのは「謝罪」についてです。にのみやさんも事件から5、6年後に面会し謝罪を受けたけれど、まったく心に響かず、虚しかったとのこと。

それがなぜなのかを、後半のディスカッションで斉藤章佳先生が補足されていましたが、加害者の謝罪はあくまでも、その瞬間の行為に対しての謝罪であって、その人の人生がその後、どんなに大変なのかに対しての謝罪はされないとのこと。

被害者の苦しみはその瞬間のことではなく、いつまでも終わることのない心身の不調、日常生活ができなくなるなどの後遺症の方にあって、そのことはまったく理解できない。そこに大きな隔たりがあるというお話でした。

そもそも性犯罪者は、相手の顔も覚えていなかったり、加害の記憶を素早く解離させて、忘れる傾向があるとのこと。つねに記憶に苛まれ、忘れることができないでいる被害者とは対照的なのだそう。これは性犯罪に限らず、いじめでもなんでも加害と被害の根っこにある隔たりですね、と梓先生が補足していましたが。

にのみやさんも、対話の中で加害者だった人たちが突然、カオナシの表情になることを指摘していました。

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元々、相手の心情に関心が持てず、犯罪だという意識さえないのが性犯罪者の心理なわけで。

だからこそ被害者が語る場は必要なのだと思いますが、被害者というレッテルを貼られるのは面倒で、結局、無理解からくるセカンドレイプになることも多い。そんなお話も出ました。 

周囲の理解を広めることが必要、というのがこの対話シリーズの目的のひとつですが、人は自分に経験のないことはなかなかわからない。

実際に服役中の加害者が被害者の声を聞くことは皆無で、学ぶ機会がないのが現状だそうですが、そろそろ真剣に考えてほしいですね。

このシリーズはほぼ毎回、参加していますが、聞けば聞くほど性犯罪者の病理が深く、更正が難しいことを感じます。衝動を抑えるために薬を飲んだり、自覚的に努力し、自分を律していかないと再犯してしまう。

アルコール依存症なら自身の身体を壊すだけですが、性犯罪は他人の一生をボロボロにしてしまうのですから、罪深いことです。

 

そもそも性犯罪者の多くが罰せられることもなく、周囲もそれを問題と思わず、被害者もそれが被害である、と気づくまでに長い時間がかかってしまう。

 

にのみやさんも最初は、こんなことくらいで自分はダメにならない、乗り越せてみせる、と頑張ってしまったことが結果的には長引かせた、と語っておられました。自分がされたことをなんでもないことのように扱うということは結局、自分を責めてしまうことになるのだと。

被害は被害として、しっかりと自分も認めてあげることが、結構、重要なのではないかと思いました。無用な被害者意識ではなく、自分に非がない相手の犯罪行為だ、という事実をです。

 

最後に余談ですが、会場でたまたま知り合いに会い、一緒に電車で帰ってきましたが、性犯罪者を減らす近道は「幸せな家庭を築くこと」。そんな話で盛り上がりました。荒んだ心を持つ人が減れば、犯罪は自然に淘汰されていくでしょう。

性犯罪に限らず、自分の鬱屈した不満を解消するために家庭内の人間、弱い立場の人間を使う人の、なんと多いのことか。家庭内に支配と服従の関係があれば、子供は健全には育たず、成人後に苦労します。将来、誰かを傷つける人を作ってしまうかもしれません。

機能不全家族を減らし、なにはなくとも、最低限の信頼が育めるような家庭が、ひとつでも増えることを願わずにはいられません。