性的虐待サバイバーとして生きる3

家庭内で行われてきた性的虐待は、私の人生に大きな影響を与えたと思いますが、特別なこととも思っていません。

もちろん自分にとっては特別なことですし、親との関係も複雑ですが、親から適切な愛情をかけられなかった人のなんと多いことか、と思うとき、自分もその一人に過ぎない、と感じずにはいられません。

先日、1970年代のシンガーソングライター、森田童子さんが亡くなられたという報道がありました。

YouTubeにアップされている昔のラジオのトークで、童子さんは自分だけではないという意味で、「ボク」や「ボクラ」という言葉を使いたかった、と語っているのをたまたま聴きました。

おそらく女性のシンガーが使い始めた走りだったのではないかと思いますが、ひとりじゃないよ、私も、あなたも、というニュアンスを伝えやすい言葉なんですね。歌詞として「わたしたち」ではちょっと長すぎますしね(^。^)

性虐待の起きる家庭は、基本的に破綻してしまっています。にもかからず家族をムリに続けようとするのですから、間違いなく機能不全家族であり、妻であり母である女性もまた、心の破綻を抱えながら生きています。兄弟がいる場合も同じで、いちばん優しく繊細な子供にいじめが集中したり、負の連鎖で全員がおかしくなってしまう。

家族は人間関係、社会の縮図で、家庭内の暴力をなくすことが社会の暴力をなくすことと直結しているのではないでしょうか。あたたかい、安心できる家庭を作ることは、犯罪を減らしていく大きな鍵だと私は思っています。

家族を信頼し、心あたたまる交流のできる人は幸いです。自分の源である親という土台の上で、安心して生きていける。

親を信じきっている子供が安心して甘えている姿をみると、胸がキュンキュンします。ああ、私にはこれがなかった、と思う瞬間でもあります。

恐怖と不安を土台に生きていても、子供はそれが当たり前だと思っていて生きています。虐待を受ける幼い子が「おねがい、ゆるして」と懇願する気持ちは他人事ではなく、本当によくわかります。

機能不全家族に起きる悲劇は、加害者、被害者、救済者の三角関係が複雑に入れ替わり、実際の被害者が被害者ポジションをとれないことが案外、多いように思います。

うちの家族の場合、悲嘆する母親がつねに被害者ポジションをとっていました。三者の中で、じつはいちばん強いのが被害者ポジションです。サイコパシーの高い人も被害を強調し、人の同情や涙を誘います。

子供の私は自動的に救済者になっていました。虐待が起きる前から、つねに母の顔色やご機嫌、体調のよしあしを伺って、言えることと言えないことを無意識に判断していたと思います。母親自身が元々不安定で、未熟だったのでしょうね。

救済者であり続けながら、後年は立場が入れ替わり、私が30代以降は父が救済者で、私が加害者になることが多くなっていきました。父は私にもっと母親に寄り添い、もっと気を遣ってくれと言い、いかに自分が大変であるか、いかに自分の妻が心配であるか、読みきれないほどの長いメールで延々と愚痴を送ってきていました。

家族であっても問題から目を逸らし、逃げてしまって、傍観者になろうとしたり、全員が加害者になって、一人をスケープゴートにするという構図はよくあるようで、家庭というのは本当に社会の縮図だと思います。

本来は被害者であるはずの人間を「おまえが悪い」「家族のことを考えろ」と責め立てて加害者にしてしまう。いちばん我慢してきた人間に役割が固定され、家族をおんぶする。

親を思う気持ちがあるがゆえに、兄弟の中でいちばん優しく、反抗できない子が家族の歪みを引き受けるのと一緒で、いじめやカルトの構造と同じ構図です。

被虐待児にこそ、問題があるとみなされ、周囲はその子に問題を押しつけてしまう。もし子供にリストカットや暴言、万引き、奇妙な嗜癖などの問題行動が起きているなら、その原因は自分たち親の側にあるのではないか、と考えられる人は少なく、自分たちを困らせる問題児、というレッテルを貼ってしまうのです。

深く傷ついた子供を、異端児扱いすることは簡単です。外側に起きている現象だけで判断し、その子供の心に何が起きているのかが見えていないんですね。

でも、本当は子供に責任はありません。子供だって本当はまっすぐに生きていきたい。植物がすくすくと育つように、日の当たる場所を目指して、ただ一生懸命生きようとしている。

それが叶わないとき、植物は成長を止め、立っているのが精一杯だったり、背丈が伸びないまま、地面すれすれに花を咲かせていたりします。

本当の救済は「被害者、加害者、救済者」の三者関係から完全に抜け出すことですが、その前に自分がどんな役割を担っていたのか、演じているのか、再確認することが「役割を終える」ことにつながっていくように思います。

性虐待を受けた人が誰かの犠牲になったり、救済者になる必要はありません。負の連鎖を持ち越して、加害者にもならないようにしたいですよね。

過去において被害者であったことは事実ですが、そういうレッテルやポジションが変わらないのであれば、家族であってもムリにつきあわないことで、ポジションを抜けていくことができるように思います。

そして家族から適切な愛情を受けられなかった人は、決して自分だけではないということを、つねに思い出していただきたいなと思います。

家族が犯罪者であることを配偶者や兄弟が隠蔽する、絶対に罪と認めない。そういう悲しい構図はたしかにあります。なかったことにしたい、もう忘れたら? そんな言葉を鵜呑みにする必要はありません。

事実は事実で、忘れる必要はありません。傷を抱えながら生きている人間こそ尊く、どんな姿であっても生きている立派な人間なのです。

これは原家族だけではなく、新しい家族、パートナーやお子さんたちにもぜひご理解いただきたいことです。

いろんなことで悲しい思いをしている人はたくさんいます。その人が前を向けないからといって劣っているわけでもありません。それもまた懸命に生きる姿なのだということ。私ではなく、私たちであり、ボクラだということを。


サルスベリの花です。