明治生まれの祖母

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私の母方の祖母は96歳で、天寿を全うしました。東京生まれの東京育ちで、ヒロシくんはシロシくん、化粧品はケショウシン、ヒがシになってしまう江戸っ子で、七人兄弟の末っ子でした。

 

 疎開先(関東大震災)の国府津から同じ電車で通う祖父に見染められて、結婚。祖父は東京の理工系の大学を出て、八幡製鉄に就職したため、祖母を連れて九州へ。

 

しかし結婚後まもなく、祖父は結核にかかって床につき、十年の闘病生活を送ることになりました。

結婚前は丸の内の官庁に勤め、大震災の時は東京駅のホームにいたという都会育ちの祖母は、そのまま九州に残り、炭鉱夫相手の小さなうどん屋を切り盛りしながら、店の奥に夫を寝かせ、看病していたようです。

 

母はそんな中で生まれ、祖父が亡くなったのは母が3歳の頃。祖母は幼い母を連れて東京に戻り、しばらく寮母などをして生計を立てた後、鉄道弘済会へ就職。定年まで勤め上げ、その間に株を覚え、それなりに財産も築き上げました。子供の頃はよく新聞の株式欄をあけて、そこの数字を読んでくれ、といわれたものです。

 

生活はつねに質素で、わずか二間の小さな都営住宅に住み、家も庭も端正で、すっきり整然としていました。子供の頃から◯◯小町と呼ばれた美少女で、品のいい人でした。

 

後年、ボケてきても、ベッドに寝ながらパジャマの胸元に乱れはないかと無意識に手をやり、直そうとする姿は、見ていて惚れ惚れするほどで、夜中にトイレに連れていくときも、もう介助者が誰なのかはっきりしなくなっても、

「ありがとうございます! お世話になります」と、必ずお礼をいうような人でした。

 

愚痴や不満の多い母とは違って、この祖母から愚痴らしい愚痴を聞いたことがありません。わがままになったり、依存心が強くなることもないまま90代まで生きました。

文句を言わず、自分の運命を受け入れて、何をすべきかを考え、賢明に生きた女性だったのだと思います。

 

 老いては子に従えで、後年、同居するようになってからも、母に支配的なことを言うような場面は一度も見たことがありません。むしろお世話になる、という態度で、身だしなみもよく、子供の提案に素直に従い、機嫌の悪いときもまずありませんでした。

 

最後は老衰で寝ている時間が多くなり、あの世とこの世を行ったり来たりしているようでしたが、どこかが痛いという祖母の身体をさすっているとき、急にふっと、正気に戻った時がありました。突然、祖母はパッと私の手を握って、真顔で言いました。

 

ペコちゃん、しっかり生きるのよ。しっかりね」それは彼女が本当に私に伝えたかったことであり、最後の言葉だったように思います。

 

愚痴を言わない辛抱強い母から、愚痴ばかりいう娘が育ち、そしてまた我慢強い娘が生まれるという、、、これもまた輪廻というものなのでしょうか。

 

祖母は片親育ちでハンディもある娘に絶対に不憫な思いをさせたくないという気持ちから、彼女の望むことはなんでも通し、与えたといい、甘やかしたかもしれない、とも言っていました。

 

 癇癪持ちだった母は気に入らないとひっくり返って足をバタバタさせるような子供だったらしく、祖母は孫の私を見て「おまえはほんとにおとなしいねえ」と、しみじみ言うことがありました。母とはずいぶん気性が違う、という印象があったようです。

 

やはり人は環境だけではなく、それぞれ持って生まれる性質や性格があるのでしょう。祖母は最後まで尊敬できる人物でしたし、可愛らしいおばあちゃんでもありました。

 

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 小学生の頃、祖母の住むこの都営住宅は、通学路の途中にありました。毎日のようにひょいと寄っていくのが習慣で、カルピスを入れてもらったり、手際よくする裁縫や、花木の手入れをするのを縁側に座って眺めたり、夕方の相撲で、大鵬が勝つのを見ていた記憶もあります。

 虐待と気づいていなかった私が、祖母に何かを訴えたことはありませんが、いつでも寄れる心のポケットになっていたのだと今は思います。

 

戦争を経験し、激動の時代を生きた明治の女たちはどんな運命も厭わず、腹を据えて全うする覚悟があったのでしょう。「よく生きる」のお手本のような人でした。

 

私にとって祖母の生き様に触れることができたのは、財産だったと思っています。

 

 時々、「しっかりね、しっかり生きるのよ」と言って手を握ってくれたおばあちゃんのことを思い出します。

 

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