誰が十字架を背負うのか
実父からの性虐待を告白した私に、母は言いました。「これからは家族全員が十字架を背負って生きるのよ」と。
小学生の私は、ズシッと背中に大きな十字架を背負った気持ちになりました。家族からの性虐待は人にはいえない秘密であり、消えない傷です。これからは、重たい十字架をズルズル引きづりながら長い道を歩くのだ、と。
家族全員が背負うという言葉も、そうなのか、と素直に信じたのだと思います。
その十字架を下ろせたのは、何十年も経ってからでした。たとえ口に出さなくても、私は父も反省してるのだと思ってきましたし、母も背負ってくれていると信じていたのです。
ところが、父は反省などしていませんでした。加害者にとってはなんの痛みもありませんから、そもそも記憶に残る出来事ではありません。どうだったっけな? 忘れたなあ、という程度のものです。たとえそれが娘のレイプであったとしても、たいしたことではないのです。
忘れた方が都合のいいことはどんどん忘れてしまいます。父には「僕も忘れたんだから、君も忘れたら?」といわれました。もしこれが裁判であれば、加害者のこういう発言はどうなるでしょうね? 量刑が重くなるんじゃないかなあ。
そして母も、十字架を背負う人ではありませんでした。共に背負うといった娘への思いやりは忘れ、あれこれ要求と期待、失望を繰り返し、夫に出せない怒りや悲しみ、埋められない心の不安や淋しさを、私への不平、不満にして向けてきました。
彼女にとって、もっとも安全で、わがままが出せる相手が、家族の中でもっとも弱い立場である一人娘の私だったのです。今も恨みがましく睨みつける目が忘れられず、一体、私が何をしたのだろう、と思いますが、ただ単に彼女の怒りを向けやすい相手が私なのだ、ということだと理解しています。
お母さん、私はこんなに重い十字架を背負っているのに、まだ気に入らないの? どうしたら気に入るの? 長いことそんな思いを抱え、母を喜ばせたいと思ってきました。
考えてみると、母は十字架を背負っているのではなく、夫の咎も認めず、自分の荷物も背負えない人でした。悪いのはみんな周りのせい、夫のせい、娘のせい。
十字架を背負って歩いていたのは、自分だけだった、とようやく気づきました。
そもそも私が十字架を背負う必要はあるんだっけ? と思いました。ないです。まったくないです。実父から性虐待を受けた子供が、なぜ罪の意識を持って生きなきゃいけないのか。十字架を背負うのは、父一人でいいのです。でも、本人は背負っちゃいない。罰せられてもいない。
今になって、やはり父は警察に通報し、刑務所に入っていただく方がよかったのではないかと思っています。こういう人は社会的な刑罰を受けて、初めて自分が悪いことをしたのだという自覚ができるのでしょう。
他の体験者のお話を聞いても、親族の加害者は想像以上に異常で、罪の意識はありません。なぜいけないのかがわからない。反省しても、また繰り返す。一定期間やめたとしても、今度は孫に手を出したりもします。(現に私は成人式の晴れ着の胸に手を入れられ、泣き叫んで脱ぎ捨てました)。
諭しても、説明しても、わからない。わかっていたら、最初から子供を性欲の捌け口にしようとはしません。
子供は神から預かった大切な宝物なのではなく、自分の性の処理ができる便利な道具なのです。そういう人が誰からも咎を受けず、妻にも子供にも許されて、甘々な状況の中で生きています。
たとえ虐待が終わっても、踏み入ってはいけない領域がわからず、無意識に自分の所有物のように扱ったり、侵入したりします。拒否すればいい、と思われるかもしれませんが、親を親として接していると、なかなか大変です。
被害者に重大な後遺症を残す犯罪だという認識が広まれば、伴侶である母親も、こうした異常者の現実を受けとめ、子供を守ることの意味や大切さをはっきり自覚できるでしょう。
あるとき、今から刑務所に行ったら?と言ったら、答えはこうでした。
「いやあ僕は、刑務所に入って、冷や飯食ってもわからないだろうなあ」 唖然としました。しかも愉快犯のような嬉しそうな口ぶりで。もうそんなことはできないと知っているからでしょう。余裕のよっちゃんでした。
「刑務所に入ったら、会いに来てくれる?」
長いこと父を可哀想に思い、甘やかした結果がこれでした。娘はなんでも許してくれて、自分を愛してくれると思っているようです。
一人で十字架を背負った結果、父も母も、結局、私に甘えていたのです。
私が背負ってきたのは両親だったのかもしれません。
法改正も進む中、過去の性虐待を訴えるかどうかは、人それぞれで、親に反省があれば、許すこともあるでしょう。家族全員が心を耕し、成長できる可能性もあります。しかし往々にして加害者は、いたずら程度だったとか、昔のことだからと軽く考え、被害を受けた人間がどれほど苦しむことになるか、まったく考えていません。心からの反省も、成長もありません。
やはり性虐待の時効は撤廃するべきだと、私は考えています。性虐待は乖離が激しく、思い出すまでに何十年もかかります。日常生活が送れていてもなんらかのPTSDや依存症に苦しんでいる人、精神科に通う人も多く、生涯に渡って影響を与えます。
家庭内に加害者がいる場合、被害者にも家族を訴えたくない、家族を崩壊させたくないという気持ちがあり、学校を卒業するまでは、と我慢する人も多いでしょう。頑張ってようやく自立できた頃に、原因不明の不調やPTSDになったり、発達障害であることが判明したりします。封印していた記憶が蘇るのは、親元から離れ、安全が確保されてからなのです。
家庭内で性虐待を受けた子供は、すでに成人しており、慰謝料ももらえず、自力で治療していくしかありません。
いくつになっても、障害が出る可能性があり、実際に裁判にするかしないかは別として、加害者を訴えることはいつでもできる状態にしておくべきではないかと思うのです。
そのような法的整備があれば、新たな加害者への抑止力にもなりますし、また言い逃れや無責任な言動を防止する力にもなるかと思います。
本当は裁判なんかしたくない。でも、長い目でみると、厳正に処罰していただくことで、社会にも認知が広まり、もし家庭内で性虐待が起きていたら、それはとんでもないことなんだと周知され、早めの通報や隔離、異常者への加療もできる世の中になるといいなと思います。