『フラッシュバック 桜守家の近親五重奏』

本業が忙しく、すっかり間が空きました。

公開に向けて少しずつ進めていることもありますが、準備が整いましたら、あらためてお知らせいたします。

今日は『フラッシュバック 桜守家の近親五重奏』という本をご紹介したいと思います。

これは聞き書きによる実話で、実兄から長期にわたる性虐待を受けた女性の長い人生の物語です。

フラッシュバックというストレートなタイトルなので、ためらう人もいるかもしれませんが、少し前の世代に、たくましくも必死で生きた一人の女性の物語としてしみじみと熱く胸に迫る内容です。

桜守家というのは仮名ですが、実際にあった家族の物語であり、性虐待が起きる背景にあるもの、人の心の傷が起こす世代間や兄弟間に起きる「負の連鎖」が克明に描かれています。

たくさんいた兄弟たちは全員、酒乱だった父親の暴力を受けていますが、生まれつき身体障害のあったさとさんだけは受けていません。

長兄は酒乱の父親の暴力をまともに受け、エネルギーも強い人だったため、そのストレスがいちばん弱い妹への性虐待として噴出したのでしょう。

さとさんは父親からの暴力は受けなかった代わりに、幼少期から長兄によるレイプを受け、のちに妊娠もしています。頭のいい兄は人前ではいい兄の顔をするため、周囲の人に気づかれずに上手に虐待を続けます。

なぜ父親がそれほど荒れたのか。五重奏の最初の音はなんだったのかと考えると、父親が戦争で受けた心の荒れが長兄に転移し、一番幼く、無力だったさとさんへの性暴力となったのがわかります。しかし、さとさんにとって父親はいつまでも優しい思い出の中にあり、助けてくれなかった母親への怒りは強いままです。

幼少のさとさんが大人と一緒に強行な泥道を歩き続けているとき、おしっこがしたいというと、母親は「おまえのここが悪い」と言って、陰部に指を突っ込むような女性でした。性を大切にすることとは程遠く、誰にも守られず、粗暴な環境の中で育ったさとさんの壮絶な人生。

戦争による心の後遺症を思わずにはいられません。人の心を荒廃させる戦争はこんなふうに代々にわたって人を苦しめる。暴力をふるう夫と暮らす母親の歪み、兄弟間の憎しみ。まさに二重、三重、、、複雑に絡みあった五重奏の構図がだんだん浮かび上がってきます。

さとさんは成人後、ご縁があって何人かの男性と暮らしますが、肌を重ねることは一度もなく、晩年になっても家にやってくる宅急便の男性にさえ警戒心を感じる暮らしは変わりません。

連鎖とはこういうものか、というものを長い年月に渡って記した桜守家の五重奏。後年は兄弟、姉妹、それぞれの結婚相手も加わり、それぞれの思いが交錯します。最終的に学校の教頭を務めていた長兄には天の報いが訪れますが、その辺りは実際に読んでみてください。

インタビューはさとさんが晩年、一人暮らしをするようになってから行われたものです。一人称では書けないような壮絶な内容になっており、あとがきを読むとインタビュアーも心身ともに疲弊し、ヘトヘトになりながら書き上げていることがわかります。

気難しいさとさんと辛抱強く向き合い、インタビューし続けた著者の結晶、共同制作ともいえる物語です。

人は運命を受け入れて生きていくしかありません。現代よりもはるかに窮屈で周囲の理解も、逃げ場もなかった田舎で一人の女性が懸命に生きた。

人からみればまだ深い傷を負ったままで偏屈にも見えますが、生まれつきの身体的障害を大変な努力で克服し、才覚を発揮して一人で身を立てるまでになったさとさんの生き様はたくましく、見事です。

性虐待が起こる家には、代々続く負の連鎖があるのでしょう。それが飛び火したり、発酵しながら、性虐待という暴力が火花のように起こってくる。

子供を性のおもちゃにする父親や兄弟は自覚もないままに病み、その生を支えていくのはその結婚相手となる女性たちです。

本来ならば精神病棟に入ってもらわなければいけないような家族が、家族の隠蔽によって守られ、逆に被害者は「厄介者」として疎まれたりします。

被害者は告発する勇気のない母親にとっても、きわめて都合の悪い存在になります。

そういえば私自身も、母親が際限なく私に不満をぶつけてくるのはなぜなのか、長いこと苦しみました。なぜ、あんな恨めしそうに私を睨むのだろう。母をかばって沈黙を続けてきたのに、この仕打ちは一体、どういうことなのかと。

母親は夫が性虐待をしていても「だってパパにはいいところもいっぱいあるでしょう?」と言い、私には後年になっても「あなたには感謝が足りない」とよく怒っていました。

「存在するな」というメッセージを与えられてきたことに気づいたのは、何十年も経ってからです。もちろん無自覚にやっていることなので、本人は気づいていません。

おそらく彼女は「娘は自分にとって都合の悪い存在である」という自覚がないまま、「感謝の足りない娘を持った私は不運だ」という自己憐憫の中で死んでいくのでしょう。生まなきゃよかった、と言いながら、感謝してほしいという矛盾には気づかないようです。

人間とは本当に複雑な生き物です。しかしいずれは、すべてのことが時と共に静かに去っていく。

『桜守家の五重奏』は長い年月に渡る人々の物語で、そんなことをしみじみ考えさせてくれます。

フラッシュバック―桜守家の近親五重奏 (現代教養文庫) https://www.amazon.co.jp/dp/4390116444/ref=cm_sw_r_cp_api_i_r3A0CbTQW857Z




黄華鬘の花です。

みんなでスライバーになりましょう

父からの性的虐待 被害女性が実名で相談応じる 「体験者同士で話すと心が軽くなる」 - 毎日新聞

 

ペコです。

大事な仲間のゆかりさんの記事が

今朝、毎日新聞でネット配信され、

トップニュースになっています!

 

ゆかりさんのブログにリンクしているので、

こちらに飛んできてくださる方が多いようで、

今、ブログのアクセス数が

すごい勢いで上がっていて、

今日だけで1万は超えそうです!  

 

飛んできてくださったみなさま、

ありがとうございます💓  

 

誰にも言えないまま、

苦しんできた方が

本当にたくさんいらっしゃると思います。

 

薬を飲まなければいけない方など

重い症状の方もいらっしゃるので、

安易には言えませんが、

ほんとうに大丈夫です。

 

どんな状態であっても

どんな姿であっても

今、生きているということは、

みんなサバイバーです。

サバイバーからスライバーへ💕

 

時間はかかるかもしれませんが、

必ず痛みが癒えるときがやってきます。

 

そのためにも同じ体験者と話すことは

とっても有効です。

 

人それぞれ、状況や家族関係は

微妙に違いますが、

その違いを知ることで

自分の心が自然に整理されていったり

新しい視点も見えてきます。

 

実際にお会いすることがなくても、

決してひとりではない、ということを

知っていてほしいと思います。

 

どんな過去があっても、

必ず幸せになれます。

 

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「当事者が語る加害者と対話する理由」に行ってきました。

「性犯罪をなくすための対話」シリーズ、第6回は場所が日比谷コンベンションホールに変わり、今回は加害者との対話を続けている写真家、にのみやさをりさんの講演と、後半は企画者である弁護士の上谷さくらさん、臨床心理士の齋藤梓さんら専門家によるパネルディスカッションでした。講演のタイトルは、

「私が性犯罪加害者と対話する理由」

にのみやさんはご存知の方も多いと思いますが、性暴力の後遺症で世界がモノクロに見えるようになったことをきっかけに、モノクロ写真の作品を撮り続けている写真家です。

講演の内容は、事件後から今に至るまでの経緯、そして昨年意を決して、性犯罪者の更正プログラムで知られる榎本クリニックの斉藤章佳さんを訪ね、更正中の加害者たちとの対話を試みてきた近況を語っておられました。

にのみやさんのお話は、自身の混乱や苦悩も含めて、ファインダーで見つめるように訥々と、しっかりと言葉が選ばれていて、ストレートに伝わってきました。ここまで真摯に向き合える人はなかなかいないのではないだろうか、と思えました。

かっこ悪くてもいい。傷が癒えなくてもいい。懸命に生きる。諦めずに生きる。人が一生懸命生きる姿は美しいものだとあらためて思います。

 

印象的だったのは「謝罪」についてです。にのみやさんも事件から5、6年後に面会し謝罪を受けたけれど、まったく心に響かず、虚しかったとのこと。

それがなぜなのかを、後半のディスカッションで斉藤章佳先生が補足されていましたが、加害者の謝罪はあくまでも、その瞬間の行為に対しての謝罪であって、その人の人生がその後、どんなに大変なのかに対しての謝罪はされないとのこと。

被害者の苦しみはその瞬間のことではなく、いつまでも終わることのない心身の不調、日常生活ができなくなるなどの後遺症の方にあって、そのことはまったく理解できない。そこに大きな隔たりがあるというお話でした。

そもそも性犯罪者は、相手の顔も覚えていなかったり、加害の記憶を素早く解離させて、忘れる傾向があるとのこと。つねに記憶に苛まれ、忘れることができないでいる被害者とは対照的なのだそう。これは性犯罪に限らず、いじめでもなんでも加害と被害の根っこにある隔たりですね、と梓先生が補足していましたが。

にのみやさんも、対話の中で加害者だった人たちが突然、カオナシの表情になることを指摘していました。

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元々、相手の心情に関心が持てず、犯罪だという意識さえないのが性犯罪者の心理なわけで。

だからこそ被害者が語る場は必要なのだと思いますが、被害者というレッテルを貼られるのは面倒で、結局、無理解からくるセカンドレイプになることも多い。そんなお話も出ました。 

周囲の理解を広めることが必要、というのがこの対話シリーズの目的のひとつですが、人は自分に経験のないことはなかなかわからない。

実際に服役中の加害者が被害者の声を聞くことは皆無で、学ぶ機会がないのが現状だそうですが、そろそろ真剣に考えてほしいですね。

このシリーズはほぼ毎回、参加していますが、聞けば聞くほど性犯罪者の病理が深く、更正が難しいことを感じます。衝動を抑えるために薬を飲んだり、自覚的に努力し、自分を律していかないと再犯してしまう。

アルコール依存症なら自身の身体を壊すだけですが、性犯罪は他人の一生をボロボロにしてしまうのですから、罪深いことです。

 

そもそも性犯罪者の多くが罰せられることもなく、周囲もそれを問題と思わず、被害者もそれが被害である、と気づくまでに長い時間がかかってしまう。

 

にのみやさんも最初は、こんなことくらいで自分はダメにならない、乗り越せてみせる、と頑張ってしまったことが結果的には長引かせた、と語っておられました。自分がされたことをなんでもないことのように扱うということは結局、自分を責めてしまうことになるのだと。

被害は被害として、しっかりと自分も認めてあげることが、結構、重要なのではないかと思いました。無用な被害者意識ではなく、自分に非がない相手の犯罪行為だ、という事実をです。

 

最後に余談ですが、会場でたまたま知り合いに会い、一緒に電車で帰ってきましたが、性犯罪者を減らす近道は「幸せな家庭を築くこと」。そんな話で盛り上がりました。荒んだ心を持つ人が減れば、犯罪は自然に淘汰されていくでしょう。

性犯罪に限らず、自分の鬱屈した不満を解消するために家庭内の人間、弱い立場の人間を使う人の、なんと多いのことか。家庭内に支配と服従の関係があれば、子供は健全には育たず、成人後に苦労します。将来、誰かを傷つける人を作ってしまうかもしれません。

機能不全家族を減らし、なにはなくとも、最低限の信頼が育めるような家庭が、ひとつでも増えることを願わずにはいられません。

 

 

 

 

 

親への怒りについて

自分がこんなに苦しいのは親のせいだとか、親に謝ってほしい、という気持ちが出てくるのはプロセスとして当然のこと。

遅まきながら、不当な扱いを受けていたことに気づき、怒りを感じるのは当たり前です。

むしろそういう本当の感情が出てこない方が危ない。危ないからこそ感情を抑圧し、しっかり箱にしまって鍵をかけてあるのですもんね。一気に箱の蓋を開けると、自分が吹き飛んでしまって、壊れかねないくらい強いのかもしれません。

パンドラの箱を開けるには、まず、開けても大丈夫な自分の土台を作ることだと思います。

トリガー的なことが起こって、自分と向き合わざるを得なくなることも多いですが、それも含めて必然です。順調、ともいうべきかもしれません。

健在意識は気づいていないとしても、準備ができたよ、というときでないと、トリガーはトリガーとして働きませんよね(^ ^)

重大なトラウマを抱えている場合は、一気に開けると、日常生活が送れなくなってしまうこともあるので、小出しにしたり、一旦、棚に上げてまた日常に戻ったり。私もいろんなことを試しました。

行きつ戻りつ。逆戻りしているのかと思うことも何度もありましたが、そうではなくて、上の蓋が開かないと感じられない感情がたくさんある、ということだったと思います。

怒りや悲しみを感じるために必要なのは、まず自分への信頼

自分を頼りにする、という感覚が少しでも持てていることと、原家族以外の人との信頼関係、つまり安全を確保することは必須ですよね。

自分ひとりではなく、爆風を受けとめてくれるパートナーや、支えてくれる友人、カウンセラーなど、周囲のサポート体制を作っておく方が安全です。

傾いた土台のままだと危険です。でも心の土台がある程度できてきたら、、

私の結論としては、もし周囲が「忘れなさい」とか「親を責めるのはやめなさい」といったとしても、自分が納得できるまでやってみる、ということをおすすめします。

自分を抑えて抑えて、くすぶらせるくらいなら、たとえ不毛な結果に終わったとしても、それでもやってみる。そして往々にして、互いの記憶や見解はまったく噛み合わないものなのですが。

その結果、どれくらい違うのか、ということもよくわかります。逆にいえば、やっぱりやってみなければ、わからない。

場合によっては加害者が手をついて謝ってくれる、ということもあるかもしれません。すべてをわかりあえなくても、ああ、そういう気持ちだったのかとか、そういう記憶しかないのか、と理解できることもありますし、それだけでも自分の視点はちょっと変わっていきます。

加害者本人はダメだったとしても、家族の誰かが理解を示してくれるようになり、まったく無理解だったときより楽になった、というケースもあるようです。

そして私のケースのように「忘れた」と言ってしらを切られたり、「今更どうすればいいんだよ」と、逆ギレされたりするのも結構、ありがちなパターン。たとえ強姦していても、当人はいたずら程度、という認識しかない、ということがようやくわかったのは大きな進展でした。

ま、事実を知れば、さらに腹が立つことになったりもしますけれど。

怒っていいし、憎んでもいい。と、私は思っています。むしろ抑圧された感情を出し切ることの方が大事な気がします。

規範意識が強い人ほど、こんな自分はよくない、親を嫌いな自分が嫌だというダブルバインドで、なかなか憎みきれないのではないでしょうか。

自由になって、自分の負の感情を認めることのなんと難しいことか。

どんな感情もOKだ、と頭では理解していても、自分自身が規範意識や不快感情に耐えられなかったりします。

怒りの放出先はよく紙に書きなぐる、ということが勧められますが、たしかに書くことで整理がついたり、高まった気持ちがおさまってきたり。

でも私はやっぱり、誰かと話す、というのがいちばんいいように思います。安心できる人、信頼できる人に、しっかり話を聞いてもらう。口に出すか出さないかは、大きな差です。

思ったことを話して、どう思う?というフィードバックをもらえる相手がいると、自分もどんどん考えが変わります。必ず一人では気づけない視点がもらえるので、思考がぐるぐるすることもありません。

親に伝えても、自分だって大変だったんだ、当時はそうするしかなかったんだ、と自己主張する親は多いでしょう。機能不全家族の場合、過去のあやまちを素直に認められる親はほとんどいないでしょう。

そもそも親自身が感情を抑圧したり、事実から目を背けたり、自分と向き合うことを避けてきた結果が機能不全なのですから。

そして最終的に、過去の出来事は結局、すべて自分の解釈にすぎない、ということにも突き当たります。

これが親の限界なんだなということがわかってやっと断ち切れる、ということもあります。でないといつまでも、もしかしたら、、いつかは、、などと期待してしまったりしませんか? 先延ばししてがっかりするのは、もっと大変です(^ ^)

事実をはっきりみる、という意味でも、私はものわかりよく引っ込まない方がいい、と今になって思います。

私はなかなか遠慮して思ったことが言えないタイプでしたが、今はふだんの人間関係でも意識的に真っ直ぐに伝える、ということを心がけています。

ちょっと言いにくいことでも、より良い関係になることを願って素直に伝えてみる。それで相手に通じない場合には、パッと諦めがつくのです。

ずっと通じないままかどうかは分かりませんが、今はムリなんだ、とわかればそれでいいですし、それが縁の切れ目になって離れていったりすることもありますが、もやもやせずに、早くわかって良かった、とも思います。

何となく違和感を感じることは早めにはっきりさせてしまった方が、後腐れがない。内心に感謝はあっても、一緒にいる必要はないとわかった方がスッキリしますよね。

自分を大切にするということは相手を大切にするということでもありますし、自分に嘘をつくことは相手にも嘘をつくということ。

親との関係も、そんなふうにやるだけやってみる方がいいと私は思っています。

怒りは破壊的なエネルギーですが、大切な感情でもあるので、拒否せず、そうだよねえって認めてあげることも忘れずに。

結局、怒りの正体は言いたいことが言えないという自分への怒りが大きかったりしますし、自分が自分の感情を認められるようになり、自己信頼ができてくることが、いちばんの収穫だったりします(^。^)

被害者意識について

日常に起きるさまざまな出来事を一瞬、愚痴りたい、嘆きたい、ということは誰にでもあると思います。言った方も言われた方も、そこでサッと流していけるならば、小さなガス抜きや嘆きは、人間らしさでもあり、いいことだと私は思っています。

正直に本音がいえる関係って、いいものです。

さらに良いのはそこから気づいたこと、掴んだこと、学んだことをシェアできるような関係。本当の共感はそこにあり、喜怒哀楽を共にしていくというグルーブ感も楽しめます。

私は、昔の事を何度も思い出して人の悪口を言って執着している人は、どうも苦手です。たしかに相手が悪いかもしれないけれど、そんな人とつきあったのは誰なんでしょう?  愚痴ってもいいけれど、そのあとに、そこから何を学ぶのか、にフォーカスできない人は成長しないので、一緒にいると疲れてきてしまいます。

で、気づいたことは何? と考えれば、必ず、おお、そうかという発見があり、成長できた喜びさえ湧いてきます。

被害者意識の抜けない人は、いつも「人のせい」にしています。その癖、ほんとにやめないと幸せになれないと思うなあ。

たしかに親や兄弟は選べないし、その中で子供が犠牲になることはありますが、成人以降の人間関係は自分が選んでいるのですから、嫌な相手と一緒にいるのは自分だ、ということを自覚して人生をクリエイトして欲しい、と心から思います。

虐待経験のある人はどうしても被害者意識が抜けず、その後の人生においても支配されやすかったり、犠牲者に甘んじたりしがちですが、そこを突破していくと、気の合う人も確実に変わってきますし、エネルギーを奪う人を上手に避けることもできるようになってきます。

結局のところ誰とつきあうかで、人生が変わる。これに尽きると思っています。人は結局のところ、関係性の中でしか自分というものを自覚できないので。

そんなわけで長々と人の愚痴を聞くことは滅多になくなってきましたが、久々に辟易したことがありました。

最近、親しくなった治療院の先生なのですが、施術の間中、おしゃべりをします。共通の知人の悪口をいったり、古い過去の話を繰り返したり、私が知らない人たちの話ばかり。相手に興味があるかどうかはおかまいなし。中身は半分愚痴、半分自慢です。施術の腕もあって、悪い人ではないんだけれど。。

最初は打ち解けたうれしさからなのか、と思っていましたが、そうでもない。またあのおしゃべりを聞かされるのかと思うとだんだん行くのが憂鬱になり、数回で行くのはやめました、笑。

いい年をしてまだホメて欲しい人、自分の毒を相手に無自覚に飲ませる人っているんですよね。大人になってくれー。こういうおしゃべりおばさん、たまにいますよね(^ ^)   

私は人とつきあう基準を長い間、いい人か悪い人かで分けていました。愚痴が多いけれど、まじめな人だから。マイナス思考だけど、意地悪しない人だから。おかげでいつまでも人を見る目が育たなくて、何度も何度も失敗しました。

被害者意識の強い人は、物事をあるがままに見れないので、曲解することが多く、成長しづらいのです。恨んだり、嫉妬したり、依存したり、自己正当化したり。傷ついたと感じると攻撃してきたりもします。

今の私の基準は「自分に悪い影響を与える人が、私にとっての悪い人」です。

いい人か悪い人かといえば、みんな悪気はないし、いい人です。しかし自覚なく相手を自分のストレス発散に使う人が、いちばんたちの悪い人。人を大切にできない人は結局、相手からも大切にされないでしょう。自分にしか関心が向いていない人は誰とも心の交流ができず、孤独なままです。

私の賢い友人はまず最初に、ちょっと愚痴ってもいい? と、最初に許可を求めます。そうすると私には愚痴を聞くんだな、という器ができるので、いいよ、何? とおおらかに笑って聞くことができます。

そして終わる時に彼女は、しょうもないことばっかり言って、ごめんね、と私をねぎらい、ありがとうね、と感謝して終わります。

彼女は基本的に自分を引き受けて生きている人で、こちらが何か正直に言っても恨むこともないし、安心してつきあえる人物です。私はこんな彼女を賢い人だと思っています。人の話から気づかされることもあるし、人との関わりはやっぱり視野を広げてくれます。

愚痴っぽい人は、自分が愚痴を言っているということに気づいていないのではないでしょうか。本人は近況報告くらいのつもりで、人を嫌な気分にさせてしまうんですね。私もそうだったと思いますが、被害者意識が強い人は、自分が人に与える影響に無自覚です。

 

被害者意識は「人のせい」にするという思考癖

愚痴や嘆き自体はあっていいものだと思いますが、でも考えてみたら〜だわとか、それで気づけたことがね、とか喋っていくうちに、どんどん違うものの見方に移行していく。私はそんな変化を楽しんでいます。

嫌な体験は隠れた感情のトリガーだったり、親の投影だったり、自分のはずせない色メガネだったり。気づくことは色々ありますが、基本的にはすべてただの経験。むしろヘンな意味づけや価値観を外すことが学びだったりしますし、時間が経ってわかることもたくさんあります。

嫌な人に出会ってしまったときは、自分がどういう人が好きなのかがより明快になる、という体験でもありますよね。

コーチングや傾聴もそうですが、誰かに話を聞いてもらったり、フィードバックを受けることで、自分の考えが自然に変わっていったりします。うなづいたり、反応してくれる人がいるだけで、人は案外、自分で答えを見つけていくもの。そんな発見の場に立ち会えるのは楽しくもあり、有り難いことでもあります。

最低限、愚痴を愚痴としてはっきり自覚するだけで、人との関係はスムースになってくると思いますし「聞いてくれてありがとう」、そんなひと言があれば、案外、愚痴も成仏するのではないでしょうか(^ ^)  

 

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心愛ちゃんの絶望

心愛ちゃんの虐待死が話題になっていますが、

矢川冬さんも書いておられるように

「死因不明」の報道をみて、

私も彼女は死を選んだのだと思いました。

父親は心愛ちゃんをせっかんするために2日間会社の休みをとり、朝から風呂場に立たせて、冷水を浴びせ続け、倒れそうになっても何度も立たせ続けたそうですね。

母親もそれを手伝い、誰も助けてくれない。

一体、どれほどの絶望だったろうかと胸が痛みます。

もちろん生物学的な死因は何かあるはずですが、生命が生命として自ら死を選ぶ、ということはあると思います。死んだ方がラクだと生命が判断するのも生命の意思ではないかと。

昔、樹木も自殺するという記事を読んだことがあります。樹木は生きようと思えばなんとか生きられる環境であっても、自ら生命活動を止め、死を選ぶことがあるのだそうです。樹木も生きようとする意志がなければ、育たないのですね。

私自身、同じような折檻の記憶があるので、その恐怖がどんなものであったか、よくわかります。

父親におなかを蹴られ続けたことが、夜に行われた性虐待以上に、白昼の「死の恐怖の記憶」として残っています。謝っても謝っても許してもらえず、逃げ場もない。母親はいるけれど、助けにきてくれない。

むしろ母親と話した後に、父親が二階に上がってきて、私をいきなり殴り倒し、手加減なく蹴り続けていましたので、母親が何か言ったのでしょう。

昨日「自分もまったく同じで、階下で母親と話した後、父親が上がってきて、、」というシーンがまったく同じだ、というコメントをいただきました。「家庭内で行われるセクハラには、何か共通するパターンがあるようですね」と。

心愛ちゃんの母親は、子供に虐待が行われている間は、自分が暴力を受けることはなかった、と証言しています。

私は命をとられるところまではいきませんでしたが、打ち所が悪ければ死んでいたでしょうし、「なんで生まれてきたのかわからない」と思った記憶は、鮮明に残りました。

生きることに絶望し、全身から力が抜け、生きることを諦めた瞬間をよく覚えています。

おそらく父親に殴られた経験がある、という人は結構いるのではないかと思いますが、頼んでも頼んでも親の暴力が止まらない、死の恐怖を感じたという人とでは同じ暴力といっても、だいぶ違うのではないかと思います。

そして子供を守れないお母さん。本当に残念。性虐待を受ける子供の母親の多くは、このパターンです。わかっていても、見て見ぬふり。子供よりも自分が可愛いか、夫の経済力を失いたくないか、世間体を気にしているか。大体、そんなところでしょう。本来、親が自分たちで解決すべき問題やストレスを子供が受けることで、親を救っているともいえます。

この事件後、自分も虐待を受けている、と子供が警察に駆け込み、父親が逮捕されたというニュースがいくつか報道されていましたが、どうか逃げてほしいと思います。

親を思うがゆえに、それができない子供もたくさんいるでしょう。名乗り出る勇気のある子の方が少ないと思います。子供はどんな親でも愛されたいと願っていますので、自分の親を訴えることはなかなかできません。

心愛ちゃんは学校のアンケートに「どうにかなりませんか」とはっきりと書いていました。

生きる意志のある強い子だったと思います。

ご冥福をお祈りします。

 

もう、沈黙はしない・・性虐待トラウマを超えて

もう、沈黙はしない・・性虐待トラウマを超えて

 

 



 

 

 

 

実父からの性虐待の補足です。

実父からの性虐待の記事の中で、

「父親が謝るのは、叱られたから」の意味がわからないというコメントをいただきましたので、補足させていただきます。

性犯罪者は、自分のしていることが「ちょっとしたいたずら」であって、さほど悪いことだと思っていません。

実際に受刑者に会って取材したホリエモンが「性犯罪者は病気なので治らない」と言っているのを動画で聴きました。ほかの犯罪については更生プログラムで変わる可能性があるが、性犯罪者にはまったくといっていいほど反省が感じられないのが印象的だった、性犯罪だけは特別で、彼らは病気だ、とコメントしていました。

つかまって刑務所に入れば、「悪いことをしたんだろうな」とは思うわけですが、心の底から大変なことをしてしまった、とは思っていないのです。なので再犯が多く、更生が難しい。

それと同じで、家族から「なんてことをしたのだ」といさめられても、「叱られた」という感覚になります。叱られたら、一応謝りますが、本当に大変なことをした、という反省はありません。

そもそも他人を傷つける行為だ、ということがわかっていれば、やれないことなのです。大切に守らなければいけない子供を自分の欲望のはけ口にしてしまう人は、脳の構造が違うので、いくら諭しても、「そんなに嫌だったのなら、悪かったね」という対処的な反応であって、なぜあんなことをしてしまったのか、という後悔は起きません。

気にしすぎなんじゃないの?僕は気になってないけど。みたいな。子供へのレイプですが。

人に間違っていると言われても、そうなのかな、とぼんやり思うような感じです。

うちの父の場合は後年になっても、なれなれしく、身体に不用意に触れてくることが多く、成人式の着物の襟に手を入れてくるようなことも平気でするわけです。他人の領域がわからないので、身体だけでなく、人生や仕事に口を出してきたり、不用意に介入してきます。悪気はありませんが、元々境界線がありません。

世の中には本当に色々な人がいますが、私の父親はそういう人でした。今の私は何も期待していませんし、謝ってほしいとも思っていません。ただそういう人だった、というだけのこと。人を変えることはできませんし、必要もないからです。

おかげで私は人生の深い学びを得ました。人それぞれいろんな学びがありますが、私の選んだ学びはこのコースだった、ということです。

元々、この世に生まれてきた一人一人の体験はまったく異なりますので、性虐待を受けた人々と共通するものはたくさんありますが、感じ方は千差万別ですし、歩む人生も異なります。

私もたくさんの本を読み、同じ体験者の方々とも出会い、学ぶことはたくさんありました。今はそれこそが財産だと感じています。痛みも大切な私の一部であり、財産です。

両親に捨てられ、祖母の家で叔父からの性虐待を受けて育ったジュンコさんの絵です。穏やかになった今の心の風景を描いています💓  

 

f:id:nopponopekochan:20190213122702j:image by Junpopo