心の通わない家族

昨日の続きです。うちの場合は、加害者であった父親がアスペルガーで、人の気持ちが基本的にわかりません。そのために性虐待が起きたのですが、今でもやめて!と、懇願したことをやり、すぐに境界線を超えて、他人の領分に介入してきます。自分と他人の区別がなく、言ってはいけないこともわからない。相手を思いやるという当たり前のことができません。

 

母親は夫を崇め続け、不満のはけ口はすべて私に向けられます。無意識にですが、つねに不平、不満、批評、ジャッジ、レッテルの連続です。上機嫌になるときは、世間体的に見栄えのよいこと、自慢できること。自分が気に入っているとき。愛着や愛情はありますが、それは条件付きの愛です。そのためすぐに気に入らないことが起こり、つねに期待と要求、勝手な失望を繰り返します。

 

愛する能力以前に、心の余裕がないのでしょう。心の穴がぽっかりと空いたまま、自分の思い通りにならないと、周囲に対していつも不満を抱えます。特に娘に対しては要求はとどまるところを知らないので、もっとっもっとと高くなります。一体どうしたら気に入ってくれるのかと、奮闘したこともあります。結局、自分で自分を満たすことができない心の病ですね。

 

世間的にはまともで、教養もある人たちだと思っていたために、まさかそこまで未熟とは、という思いがあって、気づくのがかなり遅くなりました。誰からみてもひどい親の場合は、子どもも早く見切りをつけられるのではないかと思います。

 

子育ての過程において、親は多かれ少なかれ未熟なもの。失敗や間違いの連続です。そのことを恨んでいるのではなく、人間としてその後の心の成長できなかった親への失望の方が遥かに大きいのです。本当に残念。

 

家庭内の性虐待による心の傷も、加害者の反省のない姿や、母親が加害者の伴侶であることを優先し、子どもが負った深い傷を理解しないことによる悲しみの方が遥かに大きいのです。

 

 「愛されたい」という願望は誰にでもあるし、保護を必要とする子どもの自然な本能ですが、この不足感をどう補うのか。「親に愛されなかった人は神に愛されていると思って、生きてください」という加藤諦三先生の言葉が、私は気に入っています。

 

神は宗教的な神ではなくて、世界だと私は捉えています。この世界に愛されていないものは、この世に存在していない。

 

不運の元に生まれた人間も、うっかり命を落としていくような数多の動物や虫たちも、この世に発現しているものは大いなるものに愛されたから生まれたのであり、残酷にみえることもありますが、この世のものはただただ、生まれては消えている。人智を超えた何かに生かされている。そんな気がしています。

 

心の通わない親に見切りをつけて、この世界を存分に楽しむこと。動物だって巣立ったら終わりで、あとは精一杯生きるのみ。老後の面倒を期待して子育てするような親は、動物界には存在しませんね。

 

遠い昔の記憶に苛まれるときは、事実を見直し、新しいメガネにかけかえるときなのかもしれません。

 

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路傍のカタバミです。